コルナゴ部長の阿蘇天空の旅

阿蘇くじゅう国立公園に位置する阿蘇内牧温泉からロードバイクで走るの魅力を紹介します。

『嶋屋日記』より、天体の異変

kura2010801
この日記は、寛文12年(1672)から文久2年(1862)にいたる190年間の菊池郡の文教・経済の中心地であった隈府町(現在の菊池市隈府地区)の豪商嶋屋に伝来した8冊からなる日記で、商人の手控として記録されています。著者は嶋屋の屋号を持つ隈府町の商人で当時の庶民の暮らしを調べる有力な資料となっています。

今回は163年前の菊池における天体の異変のニュースを


明和六年(一七六九)七月二十八日
八ツ時分というから午後二時ごろ、激しい夕立と雷のあと、雨が晴れたあと大地震があった。これは四十七年前(享和八年)の十一月二十二日以来のことである。


 七月二十六日の夜、午前一時頃彗星出る。本星薄く、光西をさして四五間(八㍍~十㍍)と見ゆる。
 次第次第に西に下る。八月十四日までに出仕り止まる。

 長さが四五間というのは、地上の物の長さから推定したのだろう。当時彗星という言葉があったのか疑問に思ったが、横にホウキとルビがあるので「ほうき星」のことを彗星と書いたことがわかった。


 弘化四年(一八四七)十一月十八日の午後八時、火の玉が北から南を刺して、花火の白頭花のように長く尾をひいて飛んで行った。そして赤星(菊池市大字赤星)辺りに堕ちたとの評判があった。たまたま西徳五郎が熊本城下にいて、同時刻小島辺りも同様だったと、十九日隈府に帰ったときに言った。

これは『嶋屋日記』―見聞録―の一説であるが、彗星と火の玉は別のようである。それにしても最後に「……飛び候跡、しばらく白気残り居り候」、同時刻に熊本と菊池、双方の空で見えたのに驚き、
「誠に天の高さ計りがたき事考うべし」と結んでいる。これは「宇宙は無限の空間」という今日の常識がなかったころの記述と思ったが、天の高さ(宇宙)について西洋の科学が入っていたようだ。
 なお、嘉永六年(一八五三)七月中旬、西の方向に彗星が出現し、午後六時から九時まで「その長さ五尺余り」とある。
 さて、この時期は浦賀に黒船が来た頃でもあり、八月上旬に長崎に異国船二隻(ヲロシヤ船と風評御座候蒸気船のよし)がきたことで、その記事の中で、わずかに一行だけ書いてあるだけである。これには明和六年のものと同じ彗星、長さは百五十センチと見ている。


 安政五年(一八五七)八月十二日、下男が干草切りに行き、明け七ツ過ぎ(午前四時過ぎ)陣床
(菊池市大字木庭)寅の方(北東)より西を指し、三間(五、五㍍)ばかり立ちのぼり見え候よし話し候ところ、暮れ六ツ(午後六時)過ぎ、平次郎方より長浜屋へ譲り大蔵(長浜屋に譲った蔵)の下の
端のところに見え候事也。


 この記事のあとで「彗星は九月上旬頃は南に寄り、南西に入ったが、長さはニ㍍からニ、五㍍であった」とあるが、すべての記事が十㍍以内の長さで、距離と視認の大きさの関係を、どのように理解していたのであろうか。
 九月十二、三日頃は宵の明星と同じ位置になって南西の間に入り、十七日頃は日暮れには見えなくなり、よく見えたのは三十五日間ほどであった。
と記録している。さらに万延二年(一八六一)五月上旬の記事も要約してみた。


 北西の方向に彗星が現れ、長さ九㍍あまり、嘉永六年七月は西に出たものよりよほど白気が大きかった。その頃は浦賀や江戸騒動の時、今度は対州騒動の時、江戸騒動の時から今でも異国船がくる。
「日本の大変」云々

 彗星と日本国の騒動と関係ありそうなニュアンスがうかがえるが、この著者は中島三郎平眞親といって『嶋屋日記』の第八冊目「見聞録」の著者である。しかも南画風の見事な画を書き、時計や温度計など、当時のハイテク商品に興味を持つなどハイカラな面もあり、この彗星の観察のほかにも科学的に興味を持った商人であった。だから私見ではあるが、「彗星の発見が吉凶の現れ」というような非科学的な考えではなく、風評を書いたのではないだろうか。余談ながら、この日記には「秘書不許他見」(秘書、他人が見ることを許さない)と朱書してあるように、役人の所行を見て「天下の大ばか者」と痛罵し、当時の暗い政治体制化にありながら、外にもずいぶん思い切ったことを日記に書いている。
 さらにまた彗星観察は続く。


 五月三十日頃は小暑なり。破軍剣先より四番の星の高さに並び申し候。一夜一夜に次第に上り、六月三日には剣先と並び出申し候。又々上がり六月下旬二十四日頃、八年前の屋敷の庭の真上に出申し候。ただただ上り候こと長さニ尺(六十㌢)ばかりに見え、光もごく薄くかすかになり申し候事。
七月二日立秋にて星の光ごく少なくなり、老眼にては見え申さず候。次第に上がりて手前(自分)の居蔵真上に登り候事也。

 ここで水星の観察は終わっているが、この年の三年後は明治維新の年である。
 当時は大気に塵も無く、空は澄み切っていただろうから、娯楽の少ない庶民は星空をいろいろな思いで眺めていたのだろう。そのとき彗星でも現れたら、それこそ口伝えで皆に知れわたり、民衆の関心は夜空の星に集中したに違いない。著者は、天体観測を後年の控えとして克明に記録していたのだ。


引用 中尾康幸 著「温故知新」より
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  1. 2010/08/01(日) 19:36:02|
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