コルナゴ部長の阿蘇天空の旅

阿蘇くじゅう国立公園の中央に位置する阿蘇内牧温泉からロードバイクを通じて阿蘇の魅力を紹介します。

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珠玉の短編集

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朝走るときは5時30分に家を出るのだが、休みだったので30分遅れて走ったらどうも調子がでない

体の時計のせいなのか、休みという緊張感の無さなのか、帰りは水の道を上って下ってあんずの丘まで行って帰ってきた

すっきりしない1時間45分、ガーミンはスタートとしたら充電切れというそんな日。




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走ったあとの最近の愉しみは東京の友人から頂いた小平のブルーベリーを風呂上りに食べること

ブルーベリーが日本で初めて農産物として栽培されたのが小平市であり

その歴史には今でも揺ぎ無い上質なブランド品となっている

まさか東京に農産品・・・・と思うのだが

大粒で上品な甘さと、豊かな香り、そしてはんなりとした酸味は他を圧倒する美味しさだ

これが継続の理由のひとつでもある。





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へミングウェイの短編 「二つの心臓の大川」 

これはD&G・パナウル著開高健編集「雨の日の釣師のために」という世界の傑作釣文学35のひとつとしてこの本に収められている。釣りをしていた中学のときからの愛読書で、わたしの釣りのバイブルでありキャンプの愉しみもこの本で学んだ。主人公ニックがひとりでキャンプをしてフライで鱒釣りをするだけの短編。しかし、ニック・アダムス=へミングウェイが竿を出すまでの儀式のような語り、そして鱒を釣ったとき、逃がしたとき、魚をさばくとき、それにキャンプで食事を作るシーンが素晴らしくて心臓が高鳴ったり生唾がわいたりしたものだ。
当時は大久保康雄訳で父の書棚にあったものを読んでいた。その後、野崎孝訳や高見浩訳を読んで微妙な表現の違いにやはり大久保訳が自分の実体験と重ねてもしっくりと馴染んだ。



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右がバイブルの大久保康雄訳の「心が二つある大きな川」と題名も訳者によって違う。次に読んだのが左の高見浩訳の「二つの心臓の大きな川」だが今は行方不明。最新が中央の2012年に発刊された柴田元幸訳の短編集にある「心臓の二つある大きな川」本の帯には「まったく新しいへミングウェイ!」とあるがさて。

訳の違いを好きなシーンで比べてみると、
まずは肩に痛みを感じながら大きな荷物を背負いやっとのことで絶好のキャンプ地を見つけそこで料理をして食べるシーン

大久保康雄訳 「苦労して運んできたんだから、おれはこいつを食う権利があるんだ」 

野崎孝訳 「こういう物だって、おれは自分の意思で持って来たんだからな、食う権利はあるよ」 

柴田元幸訳 「これを運ぶのを厭わないなら、僕はこういう食べ物を食べる権利がある」 

やはり大久保訳がしっくりくる。やはり他の訳では違和感がある。



続いて鱒が釣れたときのシーン

大久保訳 「ぐいと長い引きがきた。ニックは身がまえた。竿にはいのちが通い、折れんばかりにまがった。」

野崎訳 「強い引きがきた。ニックが合わせをくれると竿に生命がかよい、山なりに曲がって危険をはらみ・・・」

柴田訳 「長い引きを感じた。ニックも引っぱると、竿が息づいて危険な状態となり、大きく曲がって、糸がピン張り・・・」


「竿にはいのちが通い」という名言、やはり大久保訳だな。



続いてその鱒をばらしたシーン

大久保訳 「ニックは手がふるえた。ゆっくりと糸を巻いた。刺激が強すぎた。軽い吐き気のようなものを感じた。すわりこみたくなるような気持ちだった。」

野崎訳 「ニックの手は震えていた。彼はゆっくりとリールを巻いた。なにしろスリルが大きすぎた。少し気分が悪い。腰を下ろしたほうがよいかもしれない、漠然と彼はそう思った。」

柴田訳 「ニックの手が震えた。ゆっくりリールを巻いていった。さっきの興奮はあまりに大きかった。何となく、気分が悪くなった気がした。座った方がよさそうだった。」

釣りをしたことがあるならこの気持ちはわかるだろう、やはり大久保訳の「軽い吐き気のようなものを感じた」なのだ。




釣れた鱒の内臓を取って持ち帰るシーン

大久保訳 「ニックは二匹を肛門から顎のさきまで切り裂いて、きれいにした。はらわたも、えらも、舌も、ひとかたまりになって出てきた。二匹とも雄魚だった。長い薄鼠色の白子の筋が、なめらかで、きれいだった。はらわたは、全部いっしょに出てきたので、こぢんまりとしていた。ニックは、いたちが見つけやすいように臓物を岸に投げた。」

野崎訳 「ニックはそれらの鱒の肛門から顎の先までナイフの刃を入れて、中の臓物をとった。はらわたから鰓から舌から、いっさいがひとかたまりになって出てきた。二匹とも雄だった。灰白色をした細長い白子の筋がすべすべしてきれいである。堅くしまった臓物が、みんなつながりになってそっくり出てきた。ニックはそれをミンクの目につくように岸に向かって放り投げた。」

柴田訳 肛門からあごの先まで切れ目を入れて、二匹のはらわたを抜いた。内臓、鰓、舌がすべてひとかたまりになって出てきた。内臓は清潔で引き締まっていて、すべてひとつにまとまって出てきた。ミンクが見つけるようにと、臓物を岸に投げ捨てた。」

山で釣れた魚は鮮度を保つためさばいて内臓や鰓を取り出す。その臓物はそこに住む動物へのおすそ分けをし、魚の命を無駄にしないという意味として重要なシーンだ。だから「放り投げた」でもなく「投げ捨てたでもない、やはり「岸に投げた」なのだ。



「心が二つある大きな川」は大久保康雄訳がわたしのへミングウェイだった。まったく新しいへミングウェイとして紹介されている新訳の 「こころ朗らなれ、誰もみな」 はこれからゆっくりほかの作品を愉しんでみよう。シンプルな短編は訳次第で「おやっ」と変わるのが面白い。喩えるとフレームで乗り心地が変わるロードバイクのようなものか。




FLUCTUAT NEC MERGITUR  --- 漂えど沈まず ---

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阿蘇内牧温泉の温泉旅館から欧州の山岳コースを彷彿させる阿蘇サイクリングの愉しみ方を紹介しています。

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